「今日、少し遅くなる」
夕方、スマホの画面に表示されたのは短いその一文だった。
送り主は、嫁。
理由は書かれていない。
以前なら
「仕事が長引きそう」
「友達と少し会ってくる」
そんな一言が添えられていた気がする。
でもこの日は違った。
説明のない、事実だけの連絡。
「了解」
それだけ返してそれ以上は何も聞かなかった。
聞かなかったというより聞けなかった、に近い。
以前から、仕事や用事で遅くなる日は確かにあった。
珍しいことじゃない。
夫婦で生活していれば
お互いの都合が合わない日なんていくらでもある。
だからこの一通だけで何かを疑う理由はない。
少なくとも、頭ではそう分かっていた。
ただ、
「少し遅くなる」という言葉を見る回数が、
前より増えている気がしていた。
一週間に一度だったものが、
気づけば二度、三度。
間隔も、だんだん短くなっているように感じた。
帰宅すると部屋は静かだった。
電気はついているのに、人の気配がない。
キッチンもリビングも、片付いたまま。
子どもはまだ帰ってきていないらしい。
ランドセルも見当たらなかった。
冷蔵庫を開け簡単に食べられるものを探す。
結局、残り物で夕飯を済ませた。
一人分の食事は味気ない。
噛んでいる感覚だけがあって
美味いかどうかはよく分からなかった。
テレビをつける。
いつものニュース番組。
アナウンサーの声が流れているのに、
内容はほとんど頭に入ってこない。
画面を見ているはずなのに、
意識は別のところに向いていた。
玄関の音がしたのは、
それからしばらく経ってからだった。
鍵の開く音。
ドアの閉まる音。
それだけで、時間の経過が分かった。
「おかえり」
「ただいま」
声のトーンは、いつも通り。
特別疲れている様子もない。
上着を脱ぎ、靴を揃え、
自然に部屋に入ってくる。
何もおかしくない。
少なくとも、表面上は。
「忙しかった?」
できるだけ自然に、
何でもないことのように聞いたつもりだった。
「まあね」
短い返事。
それで会話は終わった。
それ以上、話は広がらなかった。
俺もそれ以上は聞かなかった。
深掘りする理由も、勇気もなかった。
以前なら、
「何があったの?」
「今日はこんなことがあってさ」
そんなやり取りが自然に続いていた気がする。
遅くなった理由を聞くことも
話してもらうことも
特別なことじゃなかったはずなのに。
それがいつの間にかなくなっていた。
遅くなること自体よりも、
その理由を説明されなくなったことが、
なぜか気になった。
聞かれても困らないはずなのに
最初から話す気がないようなその距離感。
「気にしすぎだ」
心の中で何度もそう言った。
仕事が忙しいだけかもしれない。
余計な詮索をするのは良くない。
そう分かっているのに、
小さな違和感だけが静かに積み重なっていく。
まだ疑うほどじゃない。
でも見過ごせるほどでもなかった。
その曖昧な場所に
俺の気持ちはいつの間にか立ち止まっていた。
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