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自分の感覚を信じ始めていた

これまでは自分の感覚を
疑うことこそが冷静さだと思っていた。

感情に流されないように。
早合点しないように。
一歩引いて見ることが
大人の判断だと信じていた。

違和感が浮かんでもすぐに信じない。
まずは疑う。一度、否定してみる。

それが自分を守る方法でもあり
間違えないための姿勢だと思っていた。

実際、
これまではそれでうまくいってきた。

疑えば落ち着けた。
疑えば考えすぎずに済んだ。

だから、
自分の感覚を疑うことに
何の違和感もなかった。

でも、
ある時ふと気づいた。

疑っているのは
感覚そのものではなく
感覚を信じようとする自分だった。

感じている内容が間違っているかどうか
ではない。

「それを信じていいのか?」
「信じる資格があるのか?」
そうやって自分自身を止めていた。

疑うことで
冷静になっているつもりだった。

でも実際は疑い続けることで、
判断そのものを先延ばしにしていたのかもしれない。

その日の会話も、
特別なものではなかった。

いつものように、
何気ない流れの中で言葉が出ただけだった。

「それ、前も言ってなかった?」

責めるつもりも、
深い意味を込めるつもりもなかった。

本当に、
思ったまま口にしただけだ。

返事はなかった。

聞こえなかったのか
聞かなかったのか。

わざと無視したのか、
たまたまタイミングが悪かったのか。

どれもあり得る。
以前ならここで終わっていた。

「気のせいだろう」
「今は考えすぎてるだけだ」

そうやって自分の中で処理していた。

でもこの時、
その沈黙を「気のせい」で済ませなかった自分がいた。

何かを断定したわけじゃない。
意味づけをしたわけでもない。

ただ、
「これは気のせいではないかもしれない」
そう思った。

証拠はない。
決定的な事実もない。

誰かに説明できる材料も
まだ何一つない。

それでも、
ここまで積み重なった感覚を
すべて否定する理由も見つからなかった。

これまでいくつも見過ごしてきた。
いくつも考えいくつも疑ってきた。

その結果として今の感覚がある。

それを、
「全部間違いだった」と
切り捨てるほうがむしろ不自然に思えた。

信じる、というよりも
これ以上疑い続ける方が不自然だ。

そんなところまで、
自分の考え方が変わってきていた。

以前なら、
感覚を信じることは危うい行為だった。

今は、
感覚を信じないことのほうが
自分をごまかしている気がする。

まだ、
何かを決めたわけではない。

行動に移したわけでもない。

でも、
自分の感覚を一度ちゃんと受け取ろうとしている。

それは小さな転換だった。

けれど、
ここまでの中で一番大きな変化だった。

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この記事を書いた人

「理由は分からないけれど、何かがおかしい気がする」
そんな感覚を抱いたことのある方に、少しでも共感していただけたらと思い、このブログを続けています。日々の出来事や感じたことを、自分なりの言葉で淡々と綴っています。

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