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一線を越えそうになった夜

その日は、特別な出来事があったわけじゃない。

帰宅時間も、夕飯の内容も、
いつもと大きくは変わらなかった。

仕事を終えて家に戻り玄関で靴を脱ぎ、
「ただいま」と言う。

返ってくる「おかえり」の声も
特別な温度差はなかったと思う。

子どもは相変わらず騒がしく、
夕飯のテーブルにはいつものメニューが並んでいた。

会話も最低限はあった。
今日あった出来事。
明日の予定。
子どもの話。

どれも「普通」の範囲だった。
ただ空気だけが少し重かった。

理由は分からない。
説明できるほどはっきりしていない。

でもいつもより音が少ない気がした。
言葉が部屋に吸い込まれていくような感覚。

食事を終えて子どもを先に寝かせたあと
二人きりでリビングに残った。

子ども部屋のドアを閉める音。
廊下の電気を消す音。

その一つひとつが終わるたびに
逃げ場がなくなっていくような気がした。

テレビはついている。
バラエティ番組の笑い声が流れている。

でも、どちらも画面を見ていない。

ソファの端と端。
物理的な距離はそれほどでもないのに妙に遠く感じた。

「明日、早い?」

沈黙に耐えきれず俺から聞いた。
本当に知りたかったのは明日の予定じゃない。

でも何か言葉を出さないとこの空気に押しつぶされそうだった。

「うん、たぶん」

短い返事。
視線はスマホのまま。

「そっか」

それで会話は終わるはずだった。

いつもならそこで終わっていた。
少し間があって嫁がスマホを見たまま言った。

「何か用事ある?」

その言い方がなぜか引っかかった。

責められているわけじゃない。
不機嫌そうでもない。

でも「用事があるなら言って」という響きが
壁を一枚挟んだように聞こえた。

「いや、別に」

反射的に答えていた。

本当は用事なんてなくても、
聞きたいことはあった。

最近のこと。
少しずつ減っていった会話のこと。
感じている距離のこと。

でも何をどう聞けばいいのか分からなかった。

正解の言葉が見つからないまま
時間だけが過ぎていく。

「最近さ」

思わず口に出た。

言った瞬間、胸の奥が少しざわついた。

「うん?」

返事はあった。
でも視線は合わない。

そのまま続きを言えばよかった。
分かっていた。

それなのに言葉が止まった。

頭の中で、
いくつもの可能性が浮かんで、
同時に消えていく。

「……なんでもない」

その一言を口にした瞬間、
胸の奥が少し苦しくなった。

自分で引っ込めたはずの言葉が
行き場を失って中に溜まったままになった感じ。

「はっきり言えばいいのに」

そんな考えが遅れて頭をよぎった。

会話が減ったこと。
距離を感じていること。
このままでいいのか分からないこと。

言葉にすれば何かが変わるかもしれない。
少なくとも今とは違う状態になる。
でも同時に何かが壊れる気もした。

今まで保ってきた「普通」が
音を立てて崩れるかもしれない。

「疲れてるだけじゃない?」

嫁が本当に何気ない調子で言った。

気遣いなのか深く踏み込まないための
言葉なのか判断はつかなかった。

「そうかもな」

自分でも驚くほどあっさり答えていた。
その場をやり過ごすにはそれが一番簡単だった。

それ以上説明もしなくていい。
踏み込まなくていい。

そう思った瞬間、少し楽になった気もした。

同時に何かを失った気もした。
それ以上会話は続かなかった。

テレビの音だけが残る。
笑い声が妙に遠く感じた。

嫁は先に立ち上がり
「先、寝るね」と言って部屋を出た。

背中を見送りながら何も言えなかった。

残されたリビングで一人ソファに座ったまま、
さっき言えなかった言葉を何度も頭の中で繰り返した。

別の言い方はなかったのか。
タイミングは他になかったのか。

あのときもう一歩踏み込んでいたら
何かが変わっていたのか。

それとも、
取り返しのつかないところまで行ってしまっていたのか。

答えは分からない。
誰かに聞いても正解は出ない気がした。

ただあの夜、
確かに一線の手前に立っていた。

越えなかったのか。
越えられなかったのか。

その違いが思っていた以上に大きいことだけは
何となく分かっていた。

でも、その意味をまだ自分の中で整理することはできていなかった。

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この記事を書いた人

「理由は分からないけれど、何かがおかしい気がする」
そんな感覚を抱いたことのある方に、少しでも共感していただけたらと思い、このブログを続けています。日々の出来事や感じたことを、自分なりの言葉で淡々と綴っています。

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