その日も特別なことは起きていなかった。
少なくとも表面上はそうだった。
夕方、嫁が少し遅く帰ってきただけだ。
玄関の音がして時計を見て、
「あ、遅いな」と思った。
それだけのことだった。
「今日は遅かったね」
何気なくいつも通りの調子で声をかけた。
「ちょっとね」
返ってきたのは短い一言。
それ以上の説明はなかった。
理由を聞かなかった。
正確には聞けなかった。
聞こうと思えば聞けたはずだ。
「何かあった?」
「仕事?」
それだけで済む。
でもその一言を続けなかった。
必要以上に踏み込む気がしなかったし、そこまで気にするほどのことではない。
そう自分に言い聞かせた。
ただ、
その日はなぜかその一言が引っかかった。
「ちょっと」
曖昧で具体的じゃない。
でも、
問いただすほどの材料もない。
帰宅時間が遅い日なんてこれまでも何度もあった。
仕事が長引くこともあれば用事が重なる日もある。
それ自体は、
何も珍しくない。
だから、偶然だと思いたかった。
この出来事そのものに特別な意味はない。
深読みする必要はない。
そう考える方がずっと楽だった。
「たまたま」
「よくあること」
「気にしすぎ」
そう言い聞かせれば一応は納得できる。
それでも、
頭のどこかで引っかかりが残っていた。
なぜ今日はこのやり取りが気になったのか。
理由は分からない。
ただ、
過去の記憶と無意識に重ねてしまう。
似たような日。
似たような返事。
似たような空気。
以前なら、
それぞれを別々の出来事として切り離せていたはずだった。
でも今は、そう簡単に処理できない。
偶然だと思いたい気持ちと、引っかかる感覚が同時に存在している。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという話ではない。
今はまだ結論を出す段階でもない。
ただ、
「偶然だ」と以前のように言い切れなくなっている。
その事実だけが静かに残っていた。
何かを疑っているわけではない。
責めたいわけでもない。
ただ、
一つひとつを偶然として片付けるには、少しだけ無理が出始めている。
その感覚をまだ言葉にはできないまま、胸の奥に置いていた。
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