最近、嫁の様子がおかしい。
そう感じるようになったのは、何か一つの出来事がきっかけだったわけじゃない。
大きな喧嘩をした覚えもない。
心に刺さるような言葉をぶつけられたわけでもない。
裏切りや疑念を抱くような、分かりやすい異変があったわけでもない。
ただ、日常の中で「少し違う」と思う瞬間が、静かに、しかし確実に増えていった。
結婚して、もうすぐ十年になる。
都市部の賃貸マンションで、子どもと三人。
広くもなく、狭すぎもしない、ごく普通の部屋。
特別贅沢でもなければ、不満を口にするほど困っているわけでもない生活だった。
仕事を終えて帰宅し、玄関のドアを開ける。
「ただいま」と声をかける。
キッチンから「おかえり」という声が返ってくる。
夕飯を食べ、テレビを眺めながら子どもの話を聞き、風呂に入れて、寝かしつける。
その繰り返しが、ずっと当たり前の日常だった。
以前は、帰宅すると自然と会話が始まった。
仕事であった些細な出来事。
上司の愚痴や、どうでもいい同僚の話。
子どもが今日どんな失敗をしたか、どんなことで笑ったか。
どれも深刻な話じゃない。
特別意味のある会話でもない。
それでも、言葉が途切れることなく、自然に続いていた。
沈黙があっても、気まずさはなかった。
同じ空間にいて、同じ時間を共有しているという感覚が、そこには確かにあった。
それが、いつの間にか減っていた。
ある日気づいた。
話しかけるのは、いつも俺からになっていることに。
そして、返ってくる言葉が、短くなっていることに。
必要な会話は、今もある。
明日の予定。
子どもの学校のこと。
買い物のメモ。
生活を回すために最低限必要な言葉のやり取り。
でも、それ以上が続かない。
話を広げようとしても、そこで終わってしまう。
相槌だけが返ってきて、会話にならないことも増えた。
目が合うことも、少なくなった。
たまたま視線が重なっても、すぐに逸らされる。
スマホを見るふりをしたり、別の用事を始めたり。
その仕草が、やけに目につくようになった。
表情も、どこかよそよそしい。
怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
ただ、距離がある。
以前より、一歩分、いや半歩分だけ遠い場所にいるような感じ。
「気のせいかな」
何度もそう思おうとした。
生活が忙しいだけかもしれない。
仕事や子育てで、余裕がないだけかもしれない。
結婚生活が長くなれば、こんなものだとも聞く。
自分が神経質になっているだけじゃないか。
変化を受け入れられず、過去にしがみついているだけじゃないか。
そうやって、自分に言い聞かせた。
でも、その違和感は、時間が経っても消えなかった。
むしろ、夜が静かになるほど、はっきりと感じるようになった。
同じ部屋にいても、どこか一人でいるような感覚。
会話がないわけじゃないのに、心が通っていない気がする瞬間。
言葉にできない何かが、二人の間に横たわっている。
理由は分からない。
問い詰めるほどの確証もない。
ただ、以前と同じではない、という感覚だけが残る。
その感覚をどう扱えばいいのか分からないまま、
俺はその日も、いつも通り子どもを寝かしつけ、
テレビを消し、明日の仕事のことを考え、
「何も問題のない一日」を終えた。
問題がないふりをしたまま、
胸の奥に、小さな不安だけを残して。
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