その日も、仕事が終わってすぐに帰る気にはなれなかった。
特別に残業があったわけではない。
やるべきことは終わっていた。
それでも、まっすぐ家に向かう足が、少しだけ重く感じていた。
駅の近くのベンチに座り、スマホを手に取った。
周囲には、帰宅途中の人たちがいた。
誰もが、それぞれの場所へ戻っていく。
その流れの中で、自分だけが少し止まっているような感覚があった。
スマホの画面を開いても、何を見るわけでもなかった。
ただ、無意識に指を動かしていた。
しばらくして、友人とのメッセージの画面が目に入った。
「一人で抱え込むなよ」
その一文を見たとき、あの日の電話のことを思い出した。
自分は初めて、嫁のことを誰かに話した。
それは、小さなことのようで、大きなことだった。
話したことで、すべてが解決したわけではない。
でも、自分の中で何かが確実に変わり始めていた。
電話の最後に、友人はこうも言っていた。
「無料で相談できるところもあるらしいぞ」
そのときは、深く考えなかった。
ただ、そういうものもあるのか、と思っただけだった。
スマホの検索画面を開いた。
少し迷ったあと、「夫婦 相談 無料」と入力した。
検索結果には、いくつものページが表示された。
匿名で相談できる窓口や、話を聞いてくれるサービスが並んでいた。
その中には、探偵事務所を無料で案内してくれるサービスもあった。
探偵選びの相談ができる【街角相談所】のようなところだ。
全国の提携事務所の中から条件に合う探偵社を紹介してくれるらしい。
相談や面談も無料とのことだった。
あなたにぴったりの探偵社をご紹介!【街角相談所 -探偵-】![]()
想像していたよりも、ずっと身近なものだった。
特別な人だけが利用するものではなく、
誰でも、必要なときに使えるものとして存在していた。
画面をスクロールしながら、胸の奥が少しざわついた。
本当に、相談していいのだろうかと思った。
浮気を確かめたわけではない。
決定的な出来事があったわけでもない。
ただ、自分の中で、これまでと同じではいられない感覚があるだけだった。
それでも、相談するという行動は、今までとは明らかに違う意味を持っていた。
それは、自分の現実を言葉にすることだった。
頭の中だけにあったものを、外に出すことだった。
それをしてしまったら、もう後戻りできないような気がした。
今までは、まだ曖昧なままでいられた。
はっきりさせずに、日常の中にとどまることができた。
でも、相談してしまえば、それは現実になる。
自分が何を感じていて、何を考えているのかを、はっきり認めることになる。
それは、自分自身に対しても嘘がつけなくなることを意味していた。
浮気という言葉を、ただ頭の中で否定するだけでは済まなくなるかもしれない。
もし、「それはおかしいことではありません」と言われたらどうなるのか。
もし、「確認することも一つの選択です」と言われたらどうなるのか。
その先に進むことを、自分は本当に望んでいるのか分からなかった。
画面に表示された「無料相談」という文字を見つめたまま、動けずにいた。
指先が、少しだけ緊張していた。
相談するという行動は、単なる情報収集ではない気がしていた。
それは、自分が現実に一歩近づくことだった。
今まで見ないようにしてきたものを、正面から見ることになるかもしれなかった。
それが怖かった。
知らないままでいれば、今の生活は続く。
何も変わらないままでいられる。
でも、知ってしまえば、同じではいられないかもしれない。
離婚という言葉を、まだ現実のものとして考えたくはなかった。
その段階ではないと、自分に言い聞かせていた。
それでも、相談という行動は、その方向へ近づいていくもののように感じられた。
スマホの画面を閉じた。
まだ、相談はしていない。
ただ、そういう場所があることを知った。
それだけだった。
それなのに、自分の中では大きな意味を持っていた。
選択肢があるということ。
一人で考え続ける以外の方法があるということ。
それは、自分の立っている場所を、少しだけ変えるものだった。
帰宅すると、嫁はリビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
いつもと同じ声だった。
いつもと同じ光景だった。
その中に立ちながら、自分は思っていた。
この日常は、まだ続いている。
何も終わっていない。
だからこそ、自分がどうするのかによって、未来は変わるのかもしれない。
夜、ベッドに入ってからも、昼間に見た画面が頭に残っていた。
無料で相談できる場所があるという事実。
それは、ただの情報ではなかった。
それは、自分にとっての入口のようなものだった。
まだ、その入口の前に立っているだけだった。
中に入るかどうかは、決めていない。
でも、自分は確実に、その存在を知ってしまった。
そして、自分の中で何かが、静かに進み始めていた。
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