その日、一日中、同じことを考えていた。
仕事をしていても、目の前のことに集中できている時間は長くなかった。
少し手が空くと、すぐに嫁のことが頭に浮かんだ。
最近の様子。
会話の少なさ。
視線を合わせない瞬間。
どれも、はっきりとおかしいと言えるものではなかった。
それでも、自分の中では無視できないものになっていた。
浮気という言葉を、何度も頭の中で否定していた。
「そんなはずはない」と思いながらも、完全に消すことはできなかった。
それが一番、自分を疲れさせていた。
確信があるわけでもないのに、疑ってしまっている自分がいた。
その日の昼休み、スマホを手に取った。
連絡先を開いたまま、しばらく画面を見ていた。
誰に話せばいいのか、分からなかった。
家族には話したくなかった。
心配させるだけかもしれないと思った。
同僚に話すのも違う気がした。
仕事とプライベートを混ぜたくなかった。
自然と、一人の名前が目に入った。
学生の頃からの友人だった。
頻繁に連絡を取るわけではないが、何年経っても変わらず話せる相手だった。
しばらく迷ったあと、短くメッセージを送った。
「少し相談したいことがあるんだけど、時間ある?」
送信ボタンを押したあと、少し後悔した。
何を相談するつもりなのか、自分でもはっきりしていなかった。
数分後、返信が来た。
「どうした?大丈夫か?」
その短い文章を見て、少しだけ気持ちが揺れた。
大丈夫かと聞かれても、自分でも分からなかった。
「電話できる?」
そう送ると、すぐに「いいよ」と返ってきた。
電話をかける前に、深く息を吐いた。
何を話すのか、頭の中で整理しようとした。
でも、言葉はまとまらなかった。
それでも、発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、友人の声が聞こえた。
「どうした?珍しいな」
いつもと変わらない声だった。
その声を聞いた瞬間、少しだけ安心した。
「いや……大したことじゃないんだけど」
そう言いながら、自分の声が少し弱くなっていることに気づいた。
「うん」
友人は、急かすことなく返事をした。
少し間を空けてから、言葉を続けた。
「最近、嫁の様子が少し変な気がしてて」
言葉にした瞬間、自分の中で何かが動いた気がした。
「変って?」
「いや……はっきり何かがあったわけじゃないんだけど」
自分でも曖昧な説明だと思った。
それでも、止めずに続けた。
「会話が減ったというか、距離がある感じがして」
電話の向こうで、友人は黙って聞いていた。
その沈黙が、話しやすかった。
「浮気とか、そういうのを疑ってるわけじゃないんだけど」
そう言いながら、完全な否定ではないことを自分でも理解していた。
「でも、なんか違和感があって」
言葉にすることで、自分の感じていたものが少しだけ形になった気がした。
友人はすぐに否定も肯定もしなかった。
「そう感じるようになったのは、いつ頃から?」
落ち着いた声でそう聞いた。
その質問に、すぐには答えられなかった。
「分からない。気づいたら、そう思うようになってた」
自分でも、いつからなのか分からなかった。
ただ、今はもう無視できないところまで来ていた。
「そっか」
友人はそれだけ言った。
余計なことは言わなかった。
そのあと、少しだけ他愛のない話をした。
仕事のことや、最近の生活のこと。
それでも、自分の中では、さっきの会話が残り続けていた。
電話を切ったあと、スマホを見つめていた。
何かが解決したわけではなかった。
状況が変わったわけでもなかった。
嫁の様子が変わったわけでもなかった。
それでも、一つだけ変わったことがあった。
自分の中にあった違和感を、初めて誰かに話した。
それは、小さなことのようで、大きなことだった。
今まで、すべて自分の中だけにあった。
疑うことも、否定することも、すべて一人でやっていた。
それを、誰かに話した。
それだけで、少しだけ現実に近づいた気がした。
その夜、帰宅すると、嫁はリビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
いつもと同じ会話だった。
その姿を見ながら、思った。
何も変わっていないように見える。
でも、自分の中では、何かが変わり始めていた。
誰かに話したことで、この問題は自分だけのものではなくなった気がした。
まだ何も分からない。
浮気をしているのかどうかも分からない。
それでも、もう以前と同じように、何も考えずに過ごすことはできない気がした。
この先、自分がどうするのか。
離婚という言葉が、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
すぐに、その考えを打ち消した。
そこまで考えるのは、まだ早いと思った。
でも、その言葉が浮かんだことだけは、はっきりと覚えていた。
そして、自分はもう、何も感じていないふりをすることはできなくなっていた。
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