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誰かに嫁の話を聞いてほしいと思った

その日も、特別な出来事があったわけではなかった。

玄関のドアを開けると、いつもと同じ空気がそこにあった。
靴を脱ぎ、揃え、鍵を置く。
何度も繰り返してきた動作だった。

リビングの照明はついていた。
テレビは消えている。
キッチンのほうから、小さな音が聞こえていた。

嫁の背中が見えた。

「おかえり」

振り返らずに、そう言った。

「ただいま」

自分も同じように返した。

それだけだった。

それ以上、言葉は続かなかった。
不自然なわけではない。
結婚してから、こういう日はいくらでもあった。

会話が少ない日も、特別なことではなかった。

それでも、何かが違うような気がしていた。

以前は、同じ沈黙でも、そこに何かがあった。
言葉がなくても、同じ場所にいるという感覚があった。

でも今は、同じ空間にいるはずなのに、少し離れているような感覚があった。

距離があるわけではない。
手を伸ばせば届く距離にいる。

それでも、どこか遠い場所にいるように感じた。

食事の準備が進み、皿が並べられた。

「今日、帰り遅かったね」

嫁が言った。

「少し仕事が長引いただけだよ」

そう答えた。

「そうなんだ」

それだけだった。

それ以上は、何も聞かれなかった。

以前なら、もう少し何か続いていた気がした。
仕事の話や、帰り道の話や、どうでもいい話が続いていたはずだった。

今は、それがなかった。

なくても困るわけではない。
問題があるわけでもない。

でも、確かに何かが減っていた。

食事の間も、静かな時間が流れていた。
気まずいわけではない。
ただ、静かだった。

その静けさの中で、自分は考えていた。

何かがおかしいのかもしれない、と思った。

でも、何がおかしいのかは分からなかった。

嫁の態度が変わったのか、
それとも、自分の感じ方が変わったのか。

どちらなのかも分からなかった。

浮気を疑うような決定的な出来事があったわけではない。
帰りが極端に遅いわけでもないし、不自然な行動があるわけでもない。

それでも、頭のどこかに、その言葉が浮かぶ瞬間があった。

浮気、という言葉だった。

その言葉が浮かんだ瞬間、自分で否定した。

「そんなはずはない」

心の中で、そう思った。

疑う理由はなかった。
確かめる理由もなかった。

それでも、一度浮かんだ言葉は、完全には消えなかった。

食事が終わり、嫁は皿を片付け始めた。

「先に休んでていいよ」

「分かった」

そう答えて、リビングに戻った。

ソファに座り、スマホを手に取った。
特に見るものがあるわけではなかった。

ニュースを開き、閉じ、また別の画面を開いた。
何も頭に入ってこなかった。

そのとき、不意に思った。

誰かに、聞いてほしい。

何があったわけでもない。
何かをされたわけでもない。

それでも、この感覚を誰かに話してみたいと思った。

「最近、少しおかしい気がする」

そう言ってみたら、どうなるのだろうと思った。

「考えすぎじゃないか」

そう言われるかもしれない。

「気のせいだよ」

そう言われるかもしれない。

それでもいいような気もした。
誰かにそう言ってもらえれば、この感覚は消えるかもしれないと思った。

スマホの連絡先を開いた。

友人の名前が並んでいた。
昔からの付き合いのある相手もいた。

最後に連絡を取ったのがいつだったか、思い出せない相手もいた。

その名前を見ながら、考えていた。

何を送ればいいのか。

「嫁の様子が少し変なんだ」

そう送るのか。

でも、それは事実なのか分からなかった。
変わったのは、嫁ではなく、自分の感じ方なのかもしれなかった。

浮気をしているかもしれない、と言えるほどの根拠はなかった。

ただ、違和感があるだけだった。

その違和感を言葉にした瞬間、自分自身がそれを認めてしまうような気がした。

まだ、その段階ではないように思えた。

スマホを閉じた。

隣の部屋から、引き出しを閉める音が聞こえた。
物が触れる、小さな音だった。

生活の中にある、ごく普通の音だった。

その音を聞きながら、自分は動かなかった。

同じ家の中にいる。
同じ時間を過ごしている。

それでも、自分は一人でいるような感覚があった。

誰かに聞いてほしいと思った。

でも、誰にも話さなかった。

話せるほどの理由がなかったからなのか、
話したくなかったのか、
それとも、まだ確かめていないからなのか。

自分でも分からなかった。

ただ、一つだけ分かっていた。

昨日までは、こんなことは考えていなかった。

浮気という言葉を、こんなふうに思い浮かべることもなかった。

それが、今日、自分の中にあった。

はっきりした形はない。
証拠もない。

それでも、その感覚だけが、静かに残り続けていた。

そして、自分はまだ、それを誰にも話していなかった。

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この記事を書いた人

「理由は分からないけれど、何かがおかしい気がする」
そんな感覚を抱いたことのある方に、少しでも共感していただけたらと思い、このブログを続けています。日々の出来事や感じたことを、自分なりの言葉で淡々と綴っています。

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