ある日、ふと気づくと嫁がよく笑っているのを見た。
特別な出来事があったわけじゃない。
子どもが学校であったことを話し、それに相槌を打つ。
少し大げさな身振りを交えた話にもちゃんと反応している。
冗談を言えばくすっと笑い、
時には声を出して笑うこともあった。
表情は柔らかく声のトーンも明るい。
無理をしているようには見えない。
外から見ればきっと何の問題もない家庭だったと思う。
親子で会話があり家の中に笑い声がある。
それなのに、
なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
安心するはずの光景なのに、
その場にいる自分だけが、
少しだけ取り残されているような感覚があった。
以前と同じ笑顔のはずだった。
少なくとも形だけ見れば変わっていない。
それなのにどこか距離を感じた。
視線は合う。
声も明るい。
態度もよそよそしいわけじゃない。
でも、その奥に、
踏み込めない壁があるように感じた。
まるで、
「ここから先は入らないでください」
そう言われているわけでもないのに
自然と立ち止まってしまう場所がある。
自分だけがその一歩手前にいるような感覚。
理由は分からない。
はっきりと説明できる違いがあるわけじゃない。
言葉にしようとしてもうまく表現できない。
冷たくなったわけでもない。
愛想が悪くなったわけでもない。
むしろ、表面だけ見れば、前より明るいくらいだ。
それなのに、その笑顔が、
自分に向けられていない気がした。
子どもに向ける笑顔。
外の誰かに向けるのと同じような角の取れた丁寧な笑顔。
そこに昔あったはずの少しだけ
気の抜けた感じが見当たらない。
「機嫌がいいなら、それでいい」
そう思おうとした。
家庭の空気が明るいのは悪いことじゃない。
笑顔があるのならそれで十分じゃないか。
不機嫌でいられるより無言で過ごされるより
ずっといいはずだ。
そうやって自分を納得させようとした。
でもどうしても引っかかることがあった。
その笑顔の理由を自分が知らないということ。
何が楽しいのか。
何に心が動いているのか。
その源が自分のいない場所にある気がしてならなかった。
夫として、
一番近くにいるはずなのに。
同じ家に住み同じ時間を過ごしているはずなのに。
共有できていない何かが確かに存在している。
それは秘密というほど大げさなものじゃないかもしれない。
ただ、俺の知らない世界が嫁の中にできている。
その事実を、
笑顔を通して突きつけられた気がした。
笑っているからこそ聞けない。
踏み込めない。
「何がそんなに楽しいの?」
そんなことを聞けば、
自分が小さく見えてしまいそうだった。
だから何も言わなかった。
いつも通りを装ってその場にいた。
でも、その感覚は思っていた以上に心に残った。
怒りでも、不安でもない。
嫉妬と呼ぶには、まだ曖昧で、
寂しさと呼ぶには、少し違う。
ただ、
「自分はここにいない」
そんな感覚だけが静かに胸の奥に沈んでいった。
その日から嫁の笑顔を見るたびに
俺は少しだけ立ち位置を意識するようになった。
同じ場所に立っているはずなのに
同じ方向を向いていない気がして。
それがこれまでのどんな違和感よりも
はっきりと俺の心に残っていた。
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