「明日、何時に帰る?」
その一言を口に出す前に、
最近は少しだけ考えるようになっていた。
ほんの数秒。
でもその数秒が以前にはなかったものだった。
前ならそんなこと意識もしなかった。
何の迷いもなく自然に聞いていたはずだ。
生活の流れの中で当たり前に交わされる会話の一つだった。
それがいつの間にか違うものになっていた。
「明日、何時に帰る?」
そう聞こうとして、一瞬、間が空く。
今、聞いてもいいだろうか?
タイミングは悪くないだろうか?
そんなことを考えている自分に少し驚く。
返ってくる答えも変わってきていた。
「ちょっと分からないかな」
「まだ何とも言えない」
以前なら、
「○時くらいかな」
「少し遅くなるかも」
そうやってある程度の目安は教えてくれていた。
今は予定があるのかないのかもはっきりしない。
言葉を選んでいるのか、本当に分からないのか、
その違いすら分からなくなっていた。
理由を聞けばいいだけの話だ。
そう頭では分かっている。
「仕事?」
「何か用事?」
たった一言、付け足すだけで済む。
それなのに
なぜかそれ以上踏み込めなかった。
「どうして?」
その一言を口にしたときの
相手の反応を想像してしまう。
もし、少し面倒そうな顔をされたら。
ため息混じりに
「別に理由とかないけど」
そんな返事が返ってきたら。
もし
「いちいち聞かれるの、嫌だな」
そんな空気を感じ取ってしまったら。
そう考えるだけで喉まで出かけた言葉が
すっと引っ込んでしまう。
夫婦なのに。
一緒に生活しているのに。
予定を聞くだけでこんなにも気を使っている。
その事実に気づいたとき
胸の奥がじんわりと重くなった。
聞かなければ余計な空気は生まれない。
変な間も、ぎこちなさも、表に出ずに済む。
聞かないことでその場は穏やかに過ぎていく。
少なくとも表面上は。
でも同時に聞かないこと自体が
少しずつ距離を広げているようにも感じた。
知ろうとしないこと。
踏み込まないこと。
それは優しさなのか、
それとも諦めなのか。
答えは分からなかった。
ただ一つ分かっていたのは、
以前の俺ならこんなことで
悩んでいなかったということだ。
何時に帰るのか。
どんな予定なのか。
それを聞くことに理由なんていらなかった。
今は違う。
聞こうとしてやめる。
聞けるはずなのに黙る。
その積み重ねが少しずつ自分の中に残っていく。
正解が分からないまま俺はまた一つ
言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉の数だけ二人の間に、
目に見えない距離が増えている気がして。
それでもその距離を測る勇気も
埋める方法もまだ見つけられずにいた。
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