感覚に頼ることが少し怖くなっていた。
自分の直感を疑い始めてから
「感じている」というだけでは
判断できなくなっていた。
だからもう一度、
数字を見返すことにした。
感情ではなく
記録として残してきたもの。
帰宅時間。
その日の曜日。
頻度とばらつき。
淡々と書き留めてきた数字を、
改めて整理する。
並べ直して
眺めて冷静に確認する。
そこには
決定的な異常はなかった。
極端に遅い日が続いているわけでもない。
特定の曜日に偏っているわけでもない。
明らかな連続性も見当たらない。
数字だけを見れば
「問題なし」
そう判断するのが自然だった。
むしろ
気にするほうが不自然に思えるほどだ。
これなら
「考えすぎだった」
と言ってしまってもおかしくはない。
でも、
それで気持ちが落ち着くかというと
そうではなかった。
数字を確認し終えたあとも
胸の奥にある重さは
変わらず残っていた。
安心するどころか
むしろ違和感がはっきりした気さえした。
数字が示す冷静さと
自分の内側にある感覚が
完全に分かれて存在している。
頭では、
理解できている。
「特別な問題はない」
「偶然の範囲だ」
「説明はつく」
理屈では、
ちゃんと納得できる。
それなのに、
感情は追いついてこない。
「じゃあ、なぜ気になるのか」
その問いだけが残る。
理屈では説明できる。
感情では納得できない。
その不一致が余計に考えさせた。
数字は嘘をつかない。
少なくとも、
意図的に何かを隠したり
都合よく振る舞ったりはしない。
事実をそのまま並べるだけだ。
でも、
数字がすべてを語るわけでもない。
数字に現れないもの。
数字にできない違和感。
空気の変化。
距離感。
言葉の選び方。
そういうものは
記録には残らない。
それを分かっているからこそ
どちらを信じればいいのか
分からなくなっていた。
感情を信じれば
理屈が否定される。
数字を信じれば
自分の感覚を疑うことになる。
どちらか一方を選べば
もう一方が置き去りになる。
その状態が一番落ち着かなかった。
数字と感情が、
同じ方向を向いていればまだ楽だった。
でも、
今は完全に食い違っている。
その事実だけが静かに
重く残っていた。
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