朝、目が覚めたとき昨夜の
やり取りが真っ先に頭に浮かんだ。
目を開けた瞬間だった。
夢と現実の境目にあるまだ意識が
定まらないはずの時間なのに考えようとしなくても自然とそこに戻ってしまった。
言いかけてやめた言葉。
続ければよかったかもしれない一言。
踏み込みそうになりながらぎりぎりのところで引き返したあの瞬間。
胸の奥に残っていた感覚が朝の静けさの中で少しだけ形を持ち始める。
でも、それ以上考えるのはやめた。
まだ布団から出る前に今日は考えない、と決めた。
今は朝で一日が始まる時間だという理由だけで自分を納得させた。
キッチンに立つと嫁はすでに朝食の準備をしていた。
フライパンが鳴る音と換気扇の低い回転音。
いつもと変わらない朝の気配が部屋に広がっている。
「おはよう」
少し間を置いてこちらから声をかけた。
「おはよう」
返ってきた声も特別な調子ではなかった。
声の高さも、話す速さも、
違和感を探そうとしなければ見つからない程度だった。
昨夜のことに触れる気配はない。
あの沈黙も、言いかけた言葉もまるで最初から存在しなかったかのようだった。
こちらもあえて何も言わなかった。
触れなければ少なくともこの時間は何事もなく進んでいく。
そう思った。
しばらくして子どもが起きてくる。
眠そうな顔で椅子に座り、朝食を前にしていつものように小さな文句を言う。
三人で朝食をとる。
「今日、学校どう?」
「給食ある?」
そんな会話が特別な意味を持たないまま交わされる。
昨日と同じ。
一週間前とも大きな違いはない。
誰かが不機嫌そうな様子もなく表面上は、いつも通りだった。
その光景を眺めながら、
「何も起きていない」
そう思い込もうとした。
問題はない。
少なくとも、朝という時間は、
そういう顔をしている。
昨夜の違和感は、
考えすぎだったのかもしれない。
疲れていただけ。
タイミングが悪かっただけ。
深い意味はなかった。
そう考えた方が、
朝はずっと楽だった。
理由を掘り下げなくていい。
言葉を選ばなくていい。
この時間を、
そのまま流してしまえばいい。
「行ってきます」
支度を終えて、
玄関で声をかける。
「いってらっしゃい」
短くそれ以上でも以下でもないやり取り。
だから見なかったことにした。
感じたはずの違和感も、
立ち止まりそうになった気持ちも、
昨夜の沈黙も。
朝の忙しさの中に全部まとめて押し込んだ。
時間に追われ、
やることに追われていれば、
考える余裕はなくなる。
それでいい、と
そのときは思っていた。
玄関のドアを閉めたあと、
一瞬だけ胸の奥がざわついた気がしたが振り返らなかった。
今はただ前を向いて家を出ることを選んだ。
それがこの朝の自分なりの判断だった。
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